夜の木陰のサルパンチ

メンクラ猿の毎日をつづります。

メスク

マスク嫌いです。

メガネかけているせいもあるかもですが、

予防の目的ではつけないですね。

いまは花粉症なんでつけてるし、

風邪をひいたらつけるでしょう。

でも基本的には避けたいと思ってます。

 

しかし一方でマスクつけてるとラクだなと思うことがあります。

 

「恋人たち」という映画の中で、

不誠実な対応をする役所の人に向かって

怒りを感じた主人公が言うセリフがあります。 

 

「マスクとってもらっていいですか?」

 

顔の半分以上が隠れているということで、

守られているような感覚ってたしかにあると思うんです。

自分は全部はさらしてないという安心感。

 

だから接客する場合などは

マスクはマイナスになりえると思うし、

逆にやましいことがあったら有効かもしれないですね。

 

選択

おそろしいのは、それでも10人中3人は彼らを支持しているという事実である。

 

これほど身内に甘く、

法や人権をないがしろにし、

不都合な事実を隠すために手段を選ばない。

自分たちの身が危うくなると尻尾を切り、

かばい続けるものを蹴落とす。

 

人として間違っている連中が、

この国で最も重要な職に就き、

自分や身内のことだけを考えて、

国を壊そうとしている。

 

目さえついているのなら、

彼らの粗末な蛮行が見えないはずはない。

なのに自分の目を引きちぎってでも、

権力者に隷属したがるやつが30%もいるらしい。

 

皮肉なことに彼らは愛国者を自認する。

でも他の国を貶める言動が跋扈する国を、

誰が素晴らしい国だなんて思うものか。

国民を従わせることを美徳のように考え、

自由の制限を強いる国になりたいのなら、

同類である中国や北朝鮮と仲良くしたらどうか。

 

この国が滅びるか、

彼らが退場するか。

 

どちらかの選択を迫られている。

 

 

 

7年1ヶ月

震災以降、つまり2011年以降、

時間の感じ方が根本的に変わってしまって、

未だに過去との距離感がうまくつかめない。

 

もう7年が経った。

それよりも以前にはどうしてただろう?

いったいどうやって過去との距離感を測っていただろう?

 

少しずつ時間が経っていくのはわかるし、

7年前がちょっとした過去なのはわかる。

7年の間にいろんなことがあったし、

それらがだいぶ昔のこととして感じ始めてもいる。

 

それでも7年前にしがみつこうとしているような、

振りほどけない紐でくくりつけられているような、

ぼんやりと遠ざかるあの日々を見つめつつ、

方々に散っていく震災以降の記憶。

 

馴染んでいくことを望んでいるような、

必死で抵抗しているような、

もはや震災やその実害には何の関係もなく、

ただもう進みたくないのかもしれない。

 

進んでいることを信じたくないなかもしれない。

ペーセー

たぶんこのブログのメインテーマは

ポリティカリーコレクトネスなんだと思う。

 

もちろんそれとは全く関係ないことを書く日もあるが、

こういう場で書きたいと思うことは、

なんとなくPCに関わってくる気がするよ。

 

PCは重要だと思う。

でもPCが退屈に感じることもわかる。

それでも我々がとるべき選択肢は、

PCを遵守する方向しかありえない。

 

PCを念頭に置いた形で芸術が生まれ、

生活に彩りを与えることは可能だ。

それを無視した前時代の文化を全否定はしない。

ただこれから生み出されたるものは、

PCを意識せざるをえない。

 

それでも芸術は大丈夫。

逆に言えば、

PCを遵守できない形でしか不可能な文化なら

潔く滅びるべきだ。

そういう時代なのである。

宇宙については考えるな

宇宙の話を読んでいる。

地球がいつか滅ぶことは確実で、

人類はその危機を乗り越えることはできないだろう。

 

いろんなものを保存していっても、

いろんなものを絶滅に追いやっても、

いつかは全部吹っ飛んじまう。

種を残そうと頑張って進化してきた生物のみなさんの、

努力は虚しくも弾け飛ぶ。

自然はすげーすごすぎる。

こうしてその偉業を丹念に記録しようとしてきた、

熱心な僕たる我ら人類にすらも、

やすやすとその鉄槌を下すのだろうか。

なんのために。

こうして滅ぼそうとするんだったら、

いったい何のために人類は生まれたのか。

地球上の生物のすべて、

この宇宙のすべては、

いったい何のために生み出されたのか。

 

まぁでも全てが消えてしまうよりも先に、

私はきっと死んでゆく。

だったらその生きてる間のことと、

そのもうちょっと先くらいまでを考えてれば、

それはそれでいいのかもしれないね。

 

テンパ

「嫌われる勇気」にもあったけれど、

怒るということもまた選択的な行為だよね。

自分で毎回、怒るか我慢するか決めてる感覚がたしかにある。

だいたい私の場合、我慢する方を選ぶ。

 

これもまた、他の人の感覚はわからないのだけど、

気の短い人というのは怒ることの方が理にかなっていると感じることが多いのだろうな。

私は我慢できる限り我慢する。

その方が人間関係を円滑に進められるような気がしてる。

 

それだとためこんでしまって危ないんじゃ?

と思われそうだけど、

むしろ人に怒りをぶつけない自分に満足感があるような

そんなような感覚があるのだよ。

本物

仕事で人の優しさに触れた。

 

その人は公的な組織のトップで、

私よりも30くらい年上だろう。

民間で、反骨精神だけで、

やみくもに自分の主張を振り回す私に、

公的な舞台では公的な戦い方があると言い、

その戦い方のアドバイスをくれた。

 

別にそんな義理なんかないのに、

なんか気にかけてくれたのだ。

 

同じ地位にある連中の中には腐ってるやつばかりで、

これまでたくさん失望してきた。

だからその人のことも半信半疑だった。

でも彼には彼の信念があるんだろうな。

話してて、見えてきた。

 

自分の至らなさに気づき、

そこに手を差し伸べる人がいることにショックを受けた。

話をしている間はなんとかこらえて、

見送ってから1人で泣き崩れた。

 

そういうのが見えるのは戦えばこそだし、

やっぱりがんばっていかなきゃならない。