夜の木陰のサルパンチ

メンクラ猿の毎日をつづります。

本物

仕事で人の優しさに触れた。

 

その人は公的な組織のトップで、

私よりも30くらい年上だろう。

民間で、反骨精神だけで、

やみくもに自分の主張を振り回す私に、

公的な舞台では公的な戦い方があると言い、

その戦い方のアドバイスをくれた。

 

別にそんな義理なんかないのに、

なんか気にかけてくれたのだ。

 

同じ地位にある連中の中には腐ってるやつばかりで、

これまでたくさん失望してきた。

だからその人のことも半信半疑だった。

でも彼には彼の信念があるんだろうな。

話してて、見えてきた。

 

自分の至らなさに気づき、

そこに手を差し伸べる人がいることにショックを受けた。

話をしている間はなんとかこらえて、

見送ってから1人で泣き崩れた。

 

そういうのが見えるのは戦えばこそだし、

やっぱりがんばっていかなきゃならない。

 

 

感覚

自分の感覚を信じている。

たぶん信じ過ぎている。

どっかで裏切られ、感覚ではないものを信じるようになればよかったのかもしれない。

しかし生憎そういう機会がなかった。

 

いや、感覚が裏切られた経験自体はあったのかもしれない。

でもあったとしてもそれは都合よく忘れてしまった。

だから今も自分の感覚を信じている。

 

ここまでうまく生きてこれた。

これからも生きていける気はしている。

でもいつかどこかで突き落とされて、

もう自分の感覚が一切信じられなくなる。

そんなことがありえるんだろうか?

 

たぶん、それはありえる。

でも感覚的には、ないだろうと思う。

 

みんなそんなもんなんだろうか?

 

富田

8年くらい前に塾講師をしていた。

当時中3だった学年は3つの中学校から集まった30名ほどのクラスで、

中学ごとで完全に分断されていて、

おそらくお互いのことをよく思ってなかった。

T中は元気な女子が中心な一方で、

M中は硬派な野球部の男子が中心。

K中はそんな中で少人数の女の子たちがひっそりと授業を受けていた。

 

K中女子の一人、木下は私が嫌いだった。

もともとは別なクラスにいてその受持ちの山田先生と親しかったから、

クラスが変わって私が受け持ちになったことが気に入らないらしかった。

 

それとT中女子と私の関係性の問題もあっただろう。

彼女たちが明るいものだから、

どうしても彼女たちと親しいように見えたのだと思う。

 

とにかく木下に嫌われてるのはよくわかった。

 

ある日、木下と同じK中の富田が居残り勉強をしていた。

富田は木下とは仲が良いわけでもないけれど、他に誰もいないから一緒にいることが多かった。

 

富田と世間話をする中で、

なんかの拍子で木下の話になった。

私はそのとき、なんも考えずに富田にもらした。

「木下はおれのこと嫌いだからなぁ」

 

そう言った私に対して、

富田は何かを思ったのだろう。

すかさず質問してきた。

 

富田「嫌いなのわかるん?」

私「そりゃあ、わかるよ」

富田「どういうとこでわかるん?」

私「まぁ態度というか仕草というか」

富田「じゃあさ、私はどうだと思う?」

私「どうって?」

富田「嫌いだったらわかるんでしょ?私はどうだと思う?」

私「え、それは…言わない」

富田「えぇ言ってよ」

 

私は逃げ切った。

なんとか彼女の意地悪な追及をかわした。

でも今ならはっきり言えるけど、

あれはつまり

「私も嫌いなんだけど、あんたちゃんと気づいてないでしょ?」

ってことだったんだろうな。

 

 

 

 

血肉

私は子どものころ、お笑いを愛していた。

とりわけダウンタウンを愛していた。

 

彼らの笑いが体に染み付いていて、

彼らを真似ることでこれまで生きてきた。

 

ごっつええ感じ」のDVDたくさん持ってて、

今も見返すと本当に笑うしすごいって思う。

そしてそのほとんどがいまテレビでやるのは不可能だなってわかる。

明らかにコンプライアンスでひっかかるなと思う。

 

こういう笑いが許された時代が幸せだとは思わない。

それは体罰が許された時代を賛美することと同じだ。

そういう笑いを血肉としてきた自分としては苦しさを感じるけれど、

そういう笑いがよからぬ傾向を生み、

たくさんの人々を苦しめてきたのだと思う。

苦しめる側だけでなく、苦しむ方も気づかぬ形で。

 

お笑いの全てを否定する気はないし、

血肉となったものを吐き出すことは無理だろう。

いま私にできることは、

いい部分だけを抽出することだけだ。

 

体罰をやってきた教師を責めても仕方ないじゃないか。

これからやめることだけは約束してほしい。

キディング

普段から冗談ばかり言っているせいで、

本当のことを言っても信じてもらえないことがよくある。

だから4月1日くらいは嘘をつかずに過ごすと決めている。

というのがすぐに嘘になるくらいには冗談を言うことは体に染みついている。

そんな自分がわりと誇らしい。

 

しかし冗談を嘘と呼ばれることは切ないものだ。

明らかに本当ではないと思われることを言うのは、

嘘ではなくて冗談なんであり、

笑ってるんだからそれは理解できるでしょ?

しかし笑っていてもなんでそんな嘘をつくのか理解できなければ、

それは冗談ではなくて嘘でしかないのか。

私が冗談を言う目的は一つだけ、

笑わせるということだ。

笑わせるための嘘を嘘とは言わないでほしい。

 

死ぬまでに

あ、これってこういうことじゃん!

という真理にたしかにたどり着いて、

すっかり忘れてしまった。

これは思い出さねばならない。

 

それは「自己肯定感」って「根拠なき自信」のことじゃん。

というくらい的を射た発見だったが、

そのスッキリ感だけ残して消えてしまってる。

 

死ぬまでに思い出せるだろうか。